フィンセント・ファン・ゴッホ 悲劇の画家の軌跡


悲劇の画家ゴッホの生い立ち
photo by ちるぼー


フィンセント・ファン・ゴッホという名前を聞いた事が無い人は少ないでしょう。
没後130年が経過した現代においても影響を及ぼし、世界中の人々を魅了するゴッホについて話していきたいと思います。


ゴッホ オランダ出身の印象派の有名画家の生い立ち


フィンセント・ファン・ゴッホ(本名はフィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホ)は1853年3月30日にオランダ南部のブラバンド州ブレダの近くのズンデルトという村にて6人の兄弟の長男と生まれました。

父親のテオドルス・ファン・ゴッホはオランダ改革派の牧師であったが、当時のオランダ北部とは違ってカトリックが多くテオドルス牧師の新教徒は村でもかなり少数派だったそうです。

小さい時からフィンセントは癇癪持ちであり、6人の兄弟の中でも扱いにくい存在だったそうです。
知らない間に1人で遠出したりしてはヒースの低湿地を散歩しては、花や鳥や昆虫などを観察して過ごす毎日だったそうです。

7歳になる1860年にはズンデルトの村の学校に通っていましたが、長女アンナと一緒に
1863年から3年間は家庭教師から教えを受けたとされています。

翌年の1864年に11歳のフィンセントは父の誕生日に『農場の家と納屋』という一枚の絵を書いて送っています。
この時の絵に画家となるフィンセントの才能が現れています。

そして同年10月にはフィンセントは親元を離れてゼーヘンベルゲンのヤン・プロフェン寄宿舎に入ります。

1866年にはティルブルフのヴィレム2世校に進学します。
ここではコンスタント=コルネーリス・ハイスマンスというパリで成功した画家が教えていて、フィンセントは彼に絵を習ったそうです。

しかし、1868年にあと1年ある学校を辞めて実家へ帰りました。
その理由はわかっていませんが、フィンセントが弟テオに送った手紙にはこう書いてあったそうです。

『僕の若い時代は、陰鬱で冷たく不毛だった』 と。



ファン・ゴッホ 画商グーピル商会で過ごす7年間


1869年、伯父であるセントの助けでフィンセントは画商グーピル商会のハーグ支店で店員として働き始めます。結果4年間をここで過ごしますがフィンセントは職場と家族の両方とうまく行かずに孤立していきます。

ハーグ支店の近くにはマウリッツハイス美術館があり、黄金世代と呼ばれる画家であるレンブラントフェルメール達の絵画に触れて美術に興味を持ち始めたと言われています。
同時に新興のハーグ派の絵にもこのときに出会ったそうです。

1872年に弟テオがフィンセントの元を訪れたそうで、レイスウェイクまで出かけ散歩途中ににわか雨に合い風車小屋で一緒にミルクを飲んだ事をフィンセントは後に回想しています。

ここからフィンセントとテオはより仲良くなり手紙でのやり取りが始まります。

1873年に追い出されるようにロンドン支店に転勤となります。
ここで20歳の彼は下宿先でをしますがうまくいかず、より彼は孤独を感じることになります。
そこからフィンセントは宗教に関心を持つようになります。

1875年にはパリの本店に転勤となります。
宗教に熱心になっていた彼の感覚と金儲けに没頭するグーピル商会とは馬が合わずに、
1876年にはフィンセントは解雇となってオランダのエッテンにある実家へと帰る事になります。

同年1876年フィンセントはイギリスに戻り寄宿学校で無償で働き始めます。

しかし伝道師になって貧しい人々の間で働きたいと思っていたフィンセントは寄宿学校を離れて組合協会の牧師のもとで手伝いをしたり、貧困街で子供達に聖書を教えたりして過ごしていたそうです。

そこからまたフィンセントはエッテンの父親の元に帰り南ホランド州のドルトレヒトの書店で働きますが、暇を見つけては聖書を英語やドイツ語などに翻訳しては宗教に対する勉強を続けていたそうで、父と勉学に励むと約束し、聖職者への道を志します。


ファン・ゴッホ 聖職者への道 アムステルダムへ


アムステルダムに住む親戚を頼り、ヤン伯父の元で王立大学の神学部受験を目指して勉強を始めました。
ストリッケル牧師の世話でメンデス・ダ・コスタという人からラテン語とギリシャ語を学んだそうですが、受験科目である文法や幾何学や歴史といったすべてが複雑で難しかったためフィンセントは挫折を味わう事になります。

これが原因で精神的に追い込まれていきます。
夜をわざと外で過ごしたり、パンしか口にしなかったりと過ごし方に変化が現れます。
杖で背中を叩いたりと自罰的行動をしたりしたとも言われています。

そして勉強をしていない事が父にわかり、自分で学資を稼ぐように言われます。

ここからフィンセントは勉強から更に遠ざかり、アムステルダムでユダヤ人へのキリスト教布教を目指すチャールズ・アドラー牧師と出会います。

そして彼は受験を待たずしてベルギーブリュッセルの真ん中ラーケンの伝道師養成学校へ行き、3ヶ月間試行期間を過ごしますが生まれから続いて在学できず、
1878年にはベルギーの炭坑地帯ボリナージュへ行き、村のパン屋に下宿しながら伝道師としての活動を始めました。

フィンセントの熱意は認められます。

仮免許と50フランの給料をもらうことになりますが、当時のオランダ人の伝道師の考え方である『苦しみの中に神の癒しを見いだす』という考え方は人々に受け入れられませんでした。

そしてフィンセントの自罰的行動は伝道師の威厳を失うと判断されて、免許と給料は打ち切られることとなります。

ここで完全に伝道師としての道が断たれてしまい、ボリナージュのクウェムにて伝道師フランクと共に炭坑夫の家に移り住みます。

父親からの生活の援助を受けて、デッサンを模写したり炭坑夫をスケッチしたりして過ごしますが、仕事をしていないフィンセントへの家族の目は厳しいものだったそうです。

1880年にはフィンセントは北フランスへ歩いて放浪の旅に出ます。

そこからエッテンの実家に帰りますが、フィンセントの普通でない行動から父は彼を精神病院へ入れようとしますが喧嘩になりまたクウェムへと戻ります。

ここから彼の画家としての人生が始まる事となるのです。



続く












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