フィンセント・ファン・ゴッホ 悲劇の画家の軌跡 その3

さくら
photo by ちるぼー


フィンセント・ファン・ゴッホ 浮世絵との出会い


1885年11月、ベルギーのアントウェルペンへと移り住んだファン・ゴッホはイマージュ通りに面した絵具屋の2階に部屋を借り、アントウェルペン王立芸術学院にて更に腕を磨きます。

この時ルーベンスに興味を持ちます。
ルーベンスとはバロック期の画家であり外交官でもあった人物です。

この時期にファン・ゴッホは浮世絵に出会います。
ジャポネズムと呼ばれていた日本趣味に惹かれます。

その理由はフランスの作家であるエドモン・ド・ゴンクール 
『シェリ』という小説がきっかけだと言われています。

ファン・ゴッホは浮世絵を買い集め、部屋には多数飾られていたそうです。

以前にも変わらず金銭的余裕などあるはずもなく、弟テオの仕送りを画材とモデル代にして自身が食べるものはパン、飲み物はコーヒーそしてたまにタバコを嗜むだけだったそうです。

この年の弟テオに向けた手紙には、温かい食べ物を食べたのはわずか数回と書かれているそうです。

そんな生活で体は衰弱し、歯は欠けていたそうです。


パリのモンマルトルへ


1886年2月末頃、いきなり弟テオのいるパリへ向かいます。
テオはその頃グーピル商会の後身であるブッソ・ヴァラドン商会の支店を任されており、モンマルトルに住んでいました。
その部屋はアトリエにしては手狭でアパートへと2人で引っ越します。

パリ時代は同居していたために手紙のやりとりがなくはっきりとした事はわかっていないそうです。

しかしフェルナン・コルモンという画家の元に、ファン・ゴッホは女性のトルソーの
素描を残しています。

そこで出会ったオーストラリアの印象派画家ジョン・ピーター・ラッセルと親交があり彼はなんとファン・ゴッホの肖像画を描き残しています。

この時代のパリは印象派よりも新印象派と呼ばれる画家が台頭しこの年に開かれた第8回印象派展にはそんな画家達の作品で彩られ、以降開かれなかった程です。

ファン・ゴッホは春から秋にかけて、
モンマルトルの丘から見下ろすパリの景観瓶に入った様々な花丘の北面の風車などの絵を描いています。
 冬以降には人物画自画像を描き残しています。

この時にファン・ゴッホは印象派初期の画家であるアドルフ・モンティセリの絵に出会い、傾倒したそうです。

カフェ・タンブランのアゴスティーナ・セガトーリという女店主にモデルを世話してもらったり、絵を飾ってもらったりしたそうです。

この時の作品が

『カフェ・タンブランの女』です。


ファン・ゴッホは彼女に求婚し、断られまたもやトラブルになったそうです。

1887年頃からファン・ゴッホは印象派新印象派の画風を積極的に取り入れ、パリの風景を明るい色彩で彩った。

これを弟のテオは高く評価していたそうです。
その頃のテオは新進の画家を扱う展示室を任されており、クロード・モネ 
カミーユ・ピサロアルマン・ギヨマンなどの作品を購入していました。

これがきっかけで野心の溢れる若い画家たちとファン・ゴッホ兄弟の交流が始まります。
絵具を買っていたジュリアン・タンギーの店が交流の場所となっていたそうです。

この時の作品が

『タンギー爺さん』の肖像画です。 


ファン・ゴッホはプロヴァンス通りにあるサミュエル・ビングという美術商の店で日本の版画を買い集めています。

『タンギー爺さん』の背景には浮世絵が見られ

渓斎英泉の『雲龍打掛の花魁』

歌川広重の『名所江戸百景』など

有名浮世絵師の作品を模した油絵を描いています。

このことからファン・ゴッホの浮世絵に対する興味がうかがえます。

この年の11月、彼はクリシー通りレストラン・シャレで仲間と展覧会を開きます。
モネルノワールら大並木通りの画廊に展示される大家と比べ、
自らを小並木通りの画家と称したそうです。

仲間の1人であるベルナールはこの様子をこう語っています。


「当時のパリの何よりも現代的だった」と。


しかし彼らの作品は当時のパリの絵画界ではほとんど見向きもされなかったそうです。

ここでフランスのポスト印象派画家ポール・ゴーギャンがカリブ海のマルティニークからフランスへと帰国します。

ここからファン・ゴッホ兄弟との交流が始まります。


そしてファン・ゴッホはアルルへと向かうのです。




つづく













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