フィンセント・ファン・ゴッホ 悲劇の画家の軌跡 その2
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photo by チルボー |
フィンセント・ファン・ゴッホ 画家への道
1880年3月から3ヵ月の間の放浪の旅の後、フィンセントはクウェムへ戻ることになります。ここから唯一の仲の良い家族である弟テオからの生活の援助が始まります。
フィンセント(以下:ファン・ゴッホ)は自分の生活の周りの人々や風景をスケッチして過ごしています。
フランソワ・ミレーの複製を手本にして練習したり、シャルル・バルグのデッサンを模写しているうちにゴッホは画家の道を目指したと言われています。
弟テオに向けた手紙にも今までの挫折から絵を描くにつれて力が戻ってきて、立ち直ろうとしているのが書き記されています。
そして同年10月にはブリュッセルを出ていきます。
街ゆく人々を観察してはデッサンを続けます。
そこでブリュッセル王立美術アカデミーに在籍していたアントン・ファン・ラッパルトという画家に出会います。
彼らのようなアカデミーに通う画家たちの勧めで本格的に画家を目指すのならと、短期間ではあったが、アカデミーに通い解剖学や遠近法などを学んだそうです。
1881年の4月には再びエッテンの実家へ戻り、農夫や田園風景を素描や水彩画で描いています。
このころよりファン・ゴッホの絵には独特の線の感じといった才能が開花し始めたと言われています。
ここで未亡人のいとこがエッテンに尋ねてきた際、ファン・ゴッホは好意を寄せることとなりますが親戚なのでもちろん家族にも良い反応はされず、結果としてファン・ゴッホは再び絶望することとなります。
そこから南ホランド州ハーグへ行きハーグ派を担っていたモーヴという人に教えを乞いました。
ファン・ゴッホは彼に油絵や水彩画を指導してもらったり、アトリエを借りる資金などお世話になりました。
とても親身になってモーヴはファン・ゴッホをハーグの絵画協会であるプル・クリスタジオの準会員に推薦したりしました。
『屋根、ハーグのアトリエからの景色』はこの時の作品です。
そんななかモーヴは石膏像のスケッチから始めなさいとファン・ゴッホに教えましたが、彼はなじみの娼婦であるシーンをモデルにしたり、挙句の果てには彼女の家賃を払ってあげたりと援助をしていました。
そのようなことや意見の違いから関係は悪化していき周りの画家たちはゴッホを避け始めます。
しかし叔父コルは風景の素描を12点頼み、ファン・ゴッホは絵を描いて送りますが期待したほどの代金は送ってくれなかったそうです。
そこからはファン・ゴッホは連れの娼婦のシーンと2人の子供と暮らし始めますが、病気になったり1年ほどで別れます。
この時の作品は『悲しみ』というシーンを描いた作品が残されています。
1883年9月よりファン・ゴッホは油絵修行のためドレンテ州のホーヘフェーンへ行き、ニーウ・アムステルダムの泥炭地帯を旅して、ミレーがしたように農民の生活や馬で畑を耕す風景を素描したそうです。
『泥炭湿地で働く女たち』はこの時の作品です。
ゴッホの北ブラバンド州ニューネンでの2年間生活
1883年12月に父親ドルスが仕事で住んでいた北ブラバンド州のニューネンへと帰省します。
以前は父親テオと喧嘩していたものの、小部屋をアトリエとして使わせてもらいます。
ここでファン・ゴッホは2年間を過ごすことになります。
このとき彼は30歳です。
翌年(1884年1月)に母が骨折し、介抱をしているうちに彼とその家族との関係が回復していき、介抱の傍ら近所の織工たちの家へ行き古いオークの織機やそこで働く織工を描いていました。
ここでも、弟テオからの仕送りは続いていましたがそれ知っている周りの人達は
『脳なしへの情け』だと言っていたことをファン・ゴッホは知っていて、このことをよく思っていませんでした。
そこで彼は作品を定期的に送る代わりに自分が稼いだことにしてほしいと申し出て、そこから農民や織工を描き続けました。
ここでの彼の描き方はペンや鉛筆での素描でした。
水彩や油絵も試みたようですが、技術的な勉強不足からか描いた絵はどれも暗い色調のものばかりでした。
弟テオは印象派を代表するカミーユ・ピサロやクロード・モネのような明るい色調の作品に関心を注いでいたため、バルビゾン派(フランスのバルビゾン村に画家が集いまた居住して、自然主義的な風景画や農民を写実的に描いた絵画の一派)を手本として暗い色調で描いていたフィンセントとの間には意見の対立が生じていったそうです。
またファン・ゴッホは恋に落ちます。
相手はマルホットという近所に住む10歳ほど年上の女性でしたが、両家族から猛反対を受けました。
そこで反対されてたマルホットは薬品を飲み自殺未遂を計ります。
このことが村ではスキャンダルになりフィンセントの周りとの関係は悪化してしまうのです。
1885年に父ドルスは発作を起こして急死してしまいます。
フィンセントは弟テオに向けた手紙にはその悲しみを記しています。
妹アンナはフィンセントが苦しめたせいで父が亡くなったのだと責め立てて、激怒していたそうです。
そこで彼はアトリエとして借りていた部屋に荷物を移し関係は悪くなっていきます。
1885年の春、ファン・ゴッホの初めの本格的な作品と言われている絵が生み出されました。タイトルはみなが耳にしたことがあるでしょう。
彼の作品を代表する『ジャガイモを食べる人々』です。
何年も書き続けた農夫の姿をファン・ゴッホ独自の着想で仕上げた人物画の集大成と言われています。この作品に本人は満足していましたが、弟テオや友人ラッパルトらからは批判され、理解を得ることはできなかったそうです。
この年の夏ファン・ゴッホは農家の少年と一緒に村を歩きまり、藁ぶき屋根の農家の連作を描いています。
この時に炭鉱のストライキを描いた小説『ジェルミナール』という、フランスの自然主義文学の定義者であるエミール・ゾラという小説家の作品に出会いボリナージュでの生活を思い出して共感したそうです。
同年9月『ジャガイモを食べる人々』のモデルの女性が妊娠したのですが村人はゴッホのせいではないかと疑い、それ以来モデルにならないようにと干渉したそうです。
そして10月にはファン・ゴッホは首都アムステルダムの国立美術館へ行き、
『フランス・ハルス』『ラウスダール』『レンブラント』などの17世紀を代表する大画家の絵を見直して素描と色彩は1つのものと考え、勢い良く一気に書き上げる事を教訓としたそうですが当時の明るい色彩の絵画の疑問を抱いていたそうです。
そして弟テオへ黒の使い方を実証するために1枚の絵を送っています。
それは父ドルスの聖書と火の消えたろうそくとエミール・ゾラの小説(生きる喜び)を描いた 『開かれた聖書の静物画』 です。
しかし村の人は誰もモデルになってくれず、部屋の契約も打ち切られたため、
ニューネンを去らざるを得なくなってしまいます。
残されたファン・ゴッホの作品は母により二束三文で処分され、ニューネンからベルギーのアントウェルペンへと旅立つ事になるのです。
つづく
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